本園では水曜日を除く毎朝、運動場かホールで全園児が集まり、朝礼会を行っています。整列・黙想・お誓いの言葉が終わると、園長の短い話があります。「園長先生に注目!」と号令がかかり、三百名近い園児さんが一斉に私の方に身体を向けます。その時、みんなの目が私を見つめます。その瞳のきれいなこと!時には朝日を受けて、園児さんたちの目がキラキラ光り、その美しさに見とれて言うべきことを失ってしまうこともあります。
どうして幼い子ども達の目は、あんなに澄んでいるのでしょうね。私はきっと醜いもの、汚いものを、あまり見ていないからだと思います。また目は心を現す鏡とも申しますから、それだけ子ども達の心が美しい、ということなのかもしれません。
先人の言葉では「人は誰でも生まれながらに天から与えられた美しい心をもっている」とされ、それを「良知」と呼びます。
幼稚園でもよく見かける子どもの姿に、泣いている子がいたら「どうしたの?」と声をかける、時には自分のハンカチを出して涙を拭いてやる、こうした行為は良知の現れだと思います。
また子ども達は「お手伝い」が大好きです。「誰か先生のお手伝いをしてくれる人!」と呼びかけると、みんな競うようにして先生の前に群がります。ご家庭でも「お手伝いしてくれる?」と声をかければ、何か別のことをしていても駆け寄ってくることでしょう。
ところが、だんだん大きくなってくると、残念ながらこの「良知」が曇ってくることがあります。その大きな原因は「損得勘定」です。これをしたら(自分にとって)損だ、得だと計算が入ると、即応しなくなります。
小学生の高学年くらいの子と、親との会話を想像してみましょう。
親「ねえ、ちょっとお使いに行ってくれる?」
子「イヤ。今ゲームしてるもん」
親「困ったわねえ。じゃあ、お小遣いあげるから、行ってよ」
子「いくら?」
親「〇〇円」
子「仕方ないなあ、じゃ行ってやるよ・・・」
ちょっと残念な会話ですね。出来ることなら、こういうやりとりはしたくないものです。
子どもの話をしていますが、実は大人も同じなのです。電車に乗り、自分が座っている時に次の駅でお年寄りが乗って来た、とします。その瞬間、何も考えず立ち上がって席を譲ればいいのですが、「ん、お年寄りだな。席を譲った方が良いのかな。でも私だって疲れているし、まだ降りる駅は遠いしな・・・」と、ぐずぐず考えている内にタイミングを失い、別の乗客が席を譲り、何となくバツの悪い気持ちになる。こんな経験はありませんか。
本園教育の基本理念である「善人教育」とは、ものごとを損得ではなく、善悪で考える人になろうとするものです。
生まれ持っている「良知」を曇らせないために、大きくなって(大人になって)損得勘定で行いを鈍らせないために、心の修養を常に心がけねばなりません。子ども達には「偉人伝」を読ませることが一番だと思います。