冬の寒さが身に沁みるようになると、いつもある人のエピソードを思い出します。
昭和30年代の冬の東京。自動車用品販売会社を辞め、独立したある男性の物語です。自分一人で同じような販売営業をしようとしましたが、全く上手くいきません。
前職時代、「独立するようなことがあったら、応援するよ」と、声をかけてくれた問屋さんも、前の会社のオーナーからの仕打ちを恐れてか、全く商品を売ってくれません。どの問屋、卸屋を訪ねても結果は同じでした。頭を下げて頼んでも、まるで犬か猫を追い払うように「シッシ!」と手を振り回す人もいます。名刺を差し出すと、目の前でビリビリに破ってゴミ箱に捨てる人、燃えているストーブにそのまま投げ入れる人もいました。
それでも売る商品が無ければ仕事になりません。ただ、誰も買わないような商品、すなわち問屋の倉庫の片隅に埋もれ、ホコリを被っているような商品なら売ってやると言われ、それらを買い求め、磨いたり包装を新しくしたりして、自転車の荷台に積めるだけ積んで、都内を行商して回ることにしました。
後年、この男性は「ですから私は『自転車創業』なのです」と、笑って話します。
(この面白さが分からない方へ。売上金を即時支払いに廻すような余裕の無い経営を「自転車操業」と言います。そのシャレなのです)
みぞれの降る寒い日のことです。この男性はカッパを着て、重たい荷物を積んだ自転車を押しながら、商品を買ってくれそうな店を探します。殆どの店が門前払いをしますから、カッパを脱いで入っても、すぐに着なくてはなりません。先ずは入れてくれるかどうかを確かめるため、あるお店の玄関ドアを開けました。その時・・・
いきなり店の中から手が出てきて、男性の濡れた手を掴みました。そして優しい声で「外は寒かったでしょう。さあ中にお入りなさい。ストーブの近くで暖まりなさい」と、店の中に引き入れました。男性は店に入る前に濡れたカッパを脱がなければ失礼になると思いましたが、そんなことにはお構いなく背中を押されました。さらに「ちょうど今、みんなでお団子を食べようとしていた時だから、あなたも食べなさい」と言って、串に刺した団子を男性の手に渡しました。
男性は「ありがとうございます」と、お礼を言いたかったのですが、感激のあまり声が出ず、団子を手にしたまま何度も頭を下げたそうです。そして、「世の中には何と心の温かい人がいるのだ。自分もいつか、こういう人になろう」と決意をしたそうです。
人を幸せにするのはお金や、物だけではありません。ひとつの言葉、表情、眼差し、態度でも相手を幸せにすることが出来ます。
寒い日が続きますが、せめて心もちは温かくありたいものです。
このエピソードの男性とは、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんであり、お団子を差し出した人は、歌手の藤山一郎さんでした。