江戸時代末期から、明治の初頭に日本を訪れた外国人は「こんなに子どもが幸せそうな国はない」と口々に言っています。イザベラ・バードという英国婦人は、明治11年春に横浜に上陸し、それから半年かけて北海道までを旅します。その体験を「日本奥地紀行」という本にまとめているのですが、その中にも「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。」と書いています。
そのように子ども達を可愛がり、大切にしていた当時の日本ですが、ただ子どもを猫可愛がりしていただけではありません。
何故そう断言出来るかと申しますと、江戸時代の子どもに対する教育の重要なポイントとして「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」という言葉が、当時の人々(特に商人)の常識として広く伝わり、浸透していたからです。以下、分解して解説してみましょう。
「三つ心」
3才までに心の豊かさを教えなさい、という意味です。人は生まれた時に心と体は繋がっていません。毎日少しずつでも豊かな心もちや感情を育てなさい。すると豊かな心に応じた、善い振る舞いが出来るようになるとしています。
「六つ躾」
6才までに躾を完了しなさい。礼儀挨拶、人に譲る態度などを身につけさせなさい、という意味です。これは本園の態度教育とも重なり、「我が意を得たり」という気がします。
「九つ言葉」
9才までに世辞が言えるようにしなさい。これは今の「お世辞」とは違います。例えば「○○さん、おはようございます。先日からお病気だったそうですが、もう大丈夫ですか」など、相手を気遣う言葉を添えられるようになるという意味です。
「十二文」
12才までに挨拶状やお礼状、お詫び状などの文章を、季節の言葉を添えて書けるようになりなさい。12才ともなれば、当時は小さな大人だったのです。
「十五理(ことわり)」
昔は15才で元服。もう一人前の大人として扱われました。ですから、この年齢に達するまでに世の中の常識や、ルールを身につけねばなりません。
「末決まる」
以上のタイミングで各々の課題が身に付くか否かで、その子の将来が決まります。
心→躾→言葉→文(勉強)→理(理屈)の順番は、今でも正しいと思います。