このところ嫌な気持ちにさせられる事件が多過ぎるように思います。
凶悪犯罪は、昔からありました。しかし、犯行に及んだ明確な事情や、動機があったように思います。「相手は誰でも良かった」と供述するような通り魔犯人は言うに及ばず、それ以外にも、「ついカッとなって」とか、「むしゃくしゃして」等とする犯行の動機が報道されると、そんな幼稚なことで・・・と思わざるを得ません。
そのような反社会的、あるいは非人間的な犯罪に走る心理は分かりませんが、これだけは分かります。「社会生活を永く続けて行くには、忍耐力が要る」ということです。
忍耐力や、身に降りかかる出来事に対する耐性が身につかないまま社会に出たら、どうなるか容易に想像出来ます。
職場に気の合わない人がいる。仕事で思い通りにならないことがある。嫌がらせを受けた。仕事自体がつまらない。するとその解決策としては、仕事を辞めるという結論に早々に達して、新しい職場へ。すると次の職場でも・・・。
凶悪な犯罪者と、仕事が長続きしない人を同じに扱うのは、論理が飛躍し過ぎとは承知していますが、私には同じように思えて仕方がないのです。忍耐力の欠如、という点においては。赤ちゃんを考えて下さい。空腹になったら泣く。排泄をして泣く。眠くなっても泣く。「眠たいのなら、ぐずぐず言わずにさっさと寝てちょうだいよ」と思った経験が、全ての母親はあることでしょう。
つまり、生まれたばかりの人間には、忍耐力などカケラも無いことが分かります。あったとしてもまだ小さな「種」の段階で、発芽さえしていないのです。そうです。忍耐力とは、持って生まれてくるものではなく、生まれた後で育てないと身につかないのです。
その第一歩が幼稚園です。この幼稚園のプロセスの中においても忍耐力の萌芽があります。年少時代には「ママがいい。お家に帰りたい」という欲求に耐えることから始まります。様々なカリキュラム、例えば鉄棒にせよ、縄跳びにせよ、最初からバンバン出来る子は一人もいません。出来るようになるまで練習を繰り返し続けることで、達成することが出来ます。
私は園児さん達に「出来たから偉いんじゃないよ。出来るようになるまで頑張ったことが偉いんだよ」と常に伝えています。その練習の過程の中で、忍耐力の芽が育まれると信じているからです。
最後に保護者の考えで習わせる「お稽古ごと」について。日替わりメニューのように週にいつも掛け持ちしている子もいますが、せいぜい二つ、それも六年間は続けなければ、意味は無い(身につかない)と考えます。
何故なら、お稽古事とはピアノでも水泳でも技能の習得という目的以上に、「根気を養う」という大切な意義と、価値があるからです。あれこれ手を伸ばしたり、長続きしないようでは、根気の畑に忍耐という花は咲かないものです。